底なし袋の中

個人的なこと

自由の感触

去年、髪の毛を赤く染めた。ついでに眉毛も、赤いアイシャドウで描くようにした。

髪型はベリーショートのツーブロック。左に3つ、右に2つピアスがあいている耳がいつも丸出しの状態だ。

そんな外見なので、よく初対面の人に「お仕事は何をしてらっしゃるんですか?」と聞かれる。

バンドをやっているとか、アパレルとか、美容師だと思われることが多いけれど、そのどれでもなく、私は個人事業主だ。

 

私の場合、「よし、個人事業主になるぞ!」と意気込んでなったわけではない。

友人に誘われて始めた仕事が、たまたま業務委託という形式をとったものだった、というだけだ。

あれからもうすぐ4年が経つけれど、フリーランスという名前はあまり使ったことがない。

 

だって、あまりにもかっこよすぎる。

意志が強くて、個性がとがっていて、いつも前を見て走っている。フリーランスとは、そういう人がなるものだと思っていた。

 

けれど、今ならわかる。フリーランスは、特別な人だけが得られる称号のようなものではなくて、単なる働き方のひとつなのだ。

生物という大きなくくりの中に、哺乳類や魚類や鳥類がいるのと同じだ。

 

陸で生活していたけど、私、空を飛ぶのが得意かも! と思ったら、鳥になる。

海の中で泳ぐの大好き! と気づいたら、魚になる。

そんなふうに心の赴くまま、場所を選んで生きていくことができたら、それは自由ということなのだと思う。

 

私だって、明日羽が生えてくるかもしれないし、えら呼吸ができるようになっているかもしれない。

そんな不安定さを怖がるのではなく、楽しむことができたら、最高なんじゃないだろうか。

 

ひとまず当面の目標は、職業を聞かれたときに、さらりと「フリーランスです」と言えるようになることだ。

夏の影

 去年の夏の終わり、私は実の親と絶縁した。
 現在の日本の法律では、戸籍上の親子の縁を切る方法はない。が、ネットで検索すると、黙って連絡先を変えたり引っ越ししたりすることを「絶縁」と定義づけている人が多くいる。
 私の場合もそれと同じく、親にも祖父母にもきょうだいにも伝えないまま、携帯電話の番号とメールアドレスを変えた。
 とはいえ、義理の両親を含めた一部の知り合いには新しい連絡先を伝えてあるから、そのあたりから聞き出して接触をはかってくる可能性はある。住所は変わっていないので、家へ直接乗りこんでくることだってあるかもしれない。
 しかし、そんなことは何ひとつ起きないまま、私は今、新しい夏を迎えている。

 

 背の高い雑草がざわざわと鳴り、ぬかるんだ土に足をとられる。自分がいったいどこへ向かっているのかわからないけれど、とにかく歩を進めなければいけない。私の夏は、そういう季節だった。
 中学生の私は、夏休みの部活動中、ある同級生に無視されるようになった。ほかの同級生や先輩もまもなく、彼女と一緒になって、明らかに私のほうを見やりながらひそひそと話をしたり、笑ったりするようになっていった。
 運の悪いことに、扇動者の女子は、部活動だけでなくクラスも一緒だった。夏休みが明けても彼女の言動は変わらなかったので、今度はクラスメイトまでもが私を嫌い、避けるようになった。

 じっと耐えていれば、いつか終わるはずだ。終わるに違いない。糸くずのように頼りない希望を、汗ばんだ手の中に握りしめながら、家族にも教師にも言わずに過ごした。特に両親には、様子がおかしいことを悟られてはいけないと思っていた。

 けれど、限界は1ヶ月でおとずれた。いじめられてるなら学校を休めばいいじゃない。天啓と呼ぶにはあまりにも単純なそれを得た私は、両親に手紙を書くことにした。真夜中、こっそりと学習机のライトをつけ、学校でどんな目に遭っているかを便箋数枚にわたって書き連ねた。最後に、もう学校には行きたくない、お願いだからわかってほしいと強調した。
 それを両親の寝室のドアの隙間から差し入れたとき、私は心の底から安堵していた。あんなひどい場所には、もう行かなくたっていいのだ。これから家でどんな風に過ごそうか。次の朝が来ることに怯えず眠りについたのは、ひどく久しぶりのことだった。

 

 翌朝、目を覚ますと、登校時間はとっくに過ぎていた。父ときょうだいが出かけたあとの家の中はしんと静かで、これが私の日常になっていくのかと、ぼんやり思った。

 その後、物音で私が起きたことを察知したのであろう母が、部屋に入ってきた。当時、母は夕方から夜にかけて働きに出ていたので、昼間はいつも家にいた。
 このとき彼女は、私がいじめられていることに対し、心配したり、気遣うような言葉をかけてくれたのかもしれない。けれど、私が覚えているのは、「学校を休むのはだめ。学校には行きなさい」と言われたことだけだ。

 どうしようもなかった。掴んでもらえると信じて疑わず伸ばした手を、なだめるように押さえこまれ、ただ頷くことしかできなかった。

 私は、学校へ通い続けた。朝、制服に腕を通しながら、毎日のように泣いた。母に見つかると、なんで泣いているのか、何がつらいのかと問い詰められるので、声を押し殺して泣いた。顔を拭って、ぎりぎり遅刻にならないくらいの時間に家を出た。

 授業と部活を終えたあとは、近所を流れる川のそばへ行った。ここでなら、誰にも知られずに泣くことができる。そう思うのに、喉にものを詰めこまれたように苦しくて、うめくように、涙を絞り出した。

 この広くて深い水の中に入れば、死ねるだろうか。何度も考えたけれど、実行に移す勇気はなかった。そして、両親が帰宅する前に家に戻り、何事もなかったかのような顔を作って、夜を過ごした。そんなふうにしか生きられない自分が、何よりも嫌いだった。

 

 アスファルトから立ち上る熱、青い草の色、中高生たちの半袖シャツ。夏のおとずれを感じると、腹の底がぎゅっと痛む。
 燃えるような夕陽、水の流れる音、泥のにおい、蛙の鳴く声、重たいセーラー服。どうしようもなく悲しくて、ぼろぼろで、どこへも行けなかった中学生の私。そのすべてを、私は昨日のことのように思い出せる。たぶんこの先もずっと、そうだろう。

 

 絶縁する少し前、私は母にメールを送った。「あの時なぜ、学校を休ませてくれなかったのですか」「夏が来るたび、辛かったあのころを思い出します」と。
 責める意図はなかった。ただ、理由が知りたかった。
 まもなく送られてきた返信には、「あなたのためを思って言った」「とても心配していた」というようなことが長々と書かれていた。読みながら、ぱきんと、ガラスのひび割れるような音を聞いた。

 私はどこかで、母のことを信じたいと思っていた。あのとき、本当は休ませてやりたい、苦しみから解放してやりたいと思いながらも、そうすることができない事情があったのだと。学校に通うのは当然だとか、世間体がどうとかではなく、母や父が悩んで悩みつくした結果、たどり着いた理由があるはずだと。

 けれど、そんなものはこの世に存在しない。その事実を知ってしまった。スマホの画面いっぱいに、言葉がこんなにも隙間なく並んでいるというのに、私に刺さるものはひとつもなかった。

 

 新しい夏は、とても静かだ。相変わらず雑草はざわざわと鳴っているし、地面もぬかるんでいるけれど、そこにレジャーシートを敷いておにぎりをかじるくらいの余裕はある。疲れた身体に鞭うって、先を急ぐ必要はないのだと、やっと思えるようになったから。

 セーラー服を着た少女の亡霊と手をつなぎ、おしゃべりをしながら、ピクニックをするように生きていく。それも悪くないなと思うと、私の夏にも、ほんの少し光が差しこむような気がする。

 

noteに掲載したものを再掲、編集しました。

語る

「わたしの母親、酒乱だったんだよねえ」

 まるでなんでもないことのように、彼女はそう言った。差し出された腕には、煙草の火を押しつけられたのだという、白くて丸い傷跡が点々と続いていた。

 そうだったんだ。蚊の鳴くような声で返した後、「私の母親もさ」と言いかけた途端、息がうまく吐けなくなる。

 私の母親がいったいどんな人間なのか、簡潔に伝えることのできる言葉を、私は持っていない。そもそもそんな言葉はこの世界に存在しないのだということも、なんとなく察しはついている。

 

 母親について語ろうとするとき、私は、空中に放り出されたような心許なさをおぼえる。四肢をじたばたさせてみても、掴めるものは何もないし、地に足がつくこともない。

 声を出そうと思えば思うほど、力が抜け、握りこぶしさえうまく作れなくなる。震えを悟られないように手の甲に爪を立てながら、その場におよそふさわしくない半笑いを浮かべてしまう。そんな過程を経てようやく、私は語りの入り口に立つことができる。

 つらいなら無理に話さなくてもいいよ、と言われることもあるけれど、話すこと自体がつらいのではない。

 私がこれから言おうとしていることは、果たして真実なのだろうか。私の被害妄想なのではないか。大げさに捉えているだけではないだろうか。

 そんなふうに、紛れもない私自身の中から溢れてくる、疑念の波に苛まれることがつらいのだ。

 

「いろいろあって、今は距離を置いてるんだ」

 それ以外の言葉を、彼女にも伝えられる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。来なくてもいいのかもしれないし、来たとしても伝える必要はないのかもしれない。

 今はただ、それでいいのだと思う。

ここにいてもいい理由

土曜の昼間からやっている音楽番組をつけながらうとうとしていたら、速報を知らせるアラームのような音で目が覚めた。
コロナ感染者数のやつかな、と思っていたら、日本の人気俳優が自死したという報道だった。

特別思い入れがあるわけではないけれど、彼は私よりも若くて、きっと才能もあった。
そんな人がみずから命を絶ったという事実があって、じゃあなぜ私はここにいて、なぜ生きているんだろう。
そんな疑問がごく自然にわいてきてしまうくらいには、私は私のことを肯定できていない。

思えばいつも、「ここにいてもいい理由」を探している。
私自身に、どれほどの値打ちがあるのか。私が「ここにいる」ことで、誰にどんな利益があるのか。私はできるだけ、それらを推測することのできる場に身を置いていたいと思う。
例えば、職場。私が労働することで、会社に利益がもたらされる。だからそこに「いてもいい」。
それから、病院や店。患者あるいは客として、代金を支払う。だからそこに「いてもいい」。

逆に、「いてもいい」理由のわからない場所にとどまるということは、とても難しい。
友人と会ってごはんを食べたり、遊んだりというのはとても楽しいけれど、同じくらい疲労する。「私と会うために時間を使って、お金を使って、この子になんの得があるんだろう?(いやない)」という考えが、会う前から会った後まで、呪いのようにつきまとうから。

その最たるものが、現在の結婚生活だ。
自分で言うのもなんだけれど、夫は私のことが大好きだ。どうしてかはわからない。「私のどこが好きなの?」と真剣に尋ねても、「どこだろうねえ」と笑って返される。
私は家で仕事をしているけれど、それもアルバイト程度のもので、99.99999パーセント夫に養ってもらっている。そのぶん私が家事などをやっているのかと言えば、そういうわけでもない。私は台所に立つだけで気分が悪くなるほど家事が嫌いだ。本当に私は、夫の背中にとりついた子泣きじじいみたいな生き物なのだ。

なのに夫は、私を捨てる気配が一向にない。
自分の食事すら作れないと言えば総菜を買ってきてくれるし、トラウマが発動して泣いていれば静かに傍にいてくれるし、休日にここへ行きたいと私が言えば文句も垂れず付き合ってくれる。私が何かにつけて「ちゃんとしてないと捨てられちゃうから」と言うたび、「そんなわけないでしょう」と笑わずに答える。
私は、不安になる。何をすればずっと好きでいてくれるのか、何をすれば嫌われて捨てられるのか、それがわからないから。
「生きていてさえくれればいい」と言われることが、自分が無条件に愛されるということが、理解できないから。

重要なのは、「ここにいていい理由」が実際にあるかどうか、ということではない。それについて思考を巡らせ、消耗してしまうことが問題なのだ。
うつ病薬物療法とカウンセリングを続けることで、ようやくそう考えられるようになった。
けれど、いくら頭でわかっていても、心がまだそこへ追いついていない。「ここにいていい理由」探しはやめられないし、不安や恐怖は常に私の中にあって、ふとした時に顔を出してしまう。


夫や、心を許している数少ない友人たちの愛を、無条件に受け取れる日は来るだろうか。

いつの間にか、自分でも気がつかないうちに、そんなふうになっていけたらと思う。

 

 

※この記事はnoteより再掲、編集したものです。

引っ越してきました

去年から某サイトで文章を書いていましたが、いろいろと思うところがありこちらに引っ越してきました。麻袋(あさぶくろ)と申します。

 

このブログは、主に以下のような話題が中心となります。

 

うつ病、その他メンタルヘルス
毒親アダルトチルドレン愛着障害など
・私の好きなもの(音楽、小説、マンガ、アニメ、特撮、映画、石、猫、ファッションなど)

 

できるだけ続けていけたらと思っています。よろしくお願いします。